両角春斎
初代春斎は加賀金沢藩の御中小姓を勤め、内職として武具馬具等の漆器上絵塗を業とした。よって能登輪島流の塗法を研究した。中年流浪して高遠藩で御作事係を勤めた。神宮寺宮脇の岩波与次右衛門の娘を妻とした。
二代目春斎は時太郎と云い、父に劣らぬ傑物であった。高遠藩の佐藤清弥は使い込みにて入牢となり、末には杖突峠上で百叩き追放となった。時次郎はこれを憐れみて峠を背負いて下り、諏訪温泉で療養せしめた。佐藤はのち、玉川村穴山に移り住んだ。春斎もまたこの因縁により穴山村に来住し、以来漆器業を営み多くの弟子を養育し、同地方漆器業の開祖と仰がれた。
三代目春斎は、倍一郎と呼び多種多芸の人であった。絵画をよくし、趣味として義太夫等も巧みであった。磨き出し蒔画の漆盆、七賢人上画の菓子器等の逸品が残されている。
四代目春斎は、一郎と云う。明治二十六年三月生まれで次男である。質性鋭敏にして技芸に長じ、父祖の業を継いで漆器業を営んでいるが、手先の技巧は益々発達してその渋味を見せている。父春斎との合作にて愛知県並びに一府十県共進会に出陳の作品は夫々入選褒賞を受けている。
(続諏訪雅人伝より引用) |